昭和39年12月13日 夜の御理解
神様は疑えば限りがない。無いという人にはやはり、神様は無いのであり、あると言う人の上にあるのであり、ね。疑うてかかればもう無いも同然。半信半疑だったらやはり、おかげも半分と仰る様に、やっぱり神様も半分の働きを見せて下さる。真実神様を信じきらせて頂くという事が、神様をそのまま頂くことが出来るのである。只今私御神前に出らせて頂いて、頂いたことは、修行が有り難くなれば一人前と仰る。
修行が有り難くなれば一人前と。ご無礼しました、そうじゃございませんでした。苦労が修行に思えるようになったら一人前と頂きましたね。苦労が修行に思える様になったら一人前だと。さっきのは取り消しです。ね。どんな苦労があってもそれを修行と、真実受けさせて頂くようになったら、一人前の信者じゃという事です。一人前では一人前です。神様も一人前しか働かせることは出来ないわけですね。
働いてもらう事は出来ないのです。だからその苦労が修行であると感じ、修行が有難いと感じれれるようになると、どういう事になるだろうかと。ここはもう有り難いという事は、その人の思いであって、ね。有り難いというのにはもうキリがないのであるから、ね。苦労が修行と分かるようになれば、一人前だけれどもこの修行が、有り難いという事が、十人分有り難いなら、十人力であり。
百人分有り難いなら、百人力ということになり。その有り難いのが、千人前も有難いという事になりゃ、神様も、千人分の、千人力を持って、私共に、御働きくださることが出来るという事。ね。無いと言う人には、神様はないのである。あると言う人の上にあるのであり、ね。それを例えばほんなら具体的に、只今申します様にですね。そんならばどういう風に神様を現していくかと。
一人前現すか、百人前現すかと言う事になるのです。千人も万人もの働きを現して、神様を千万人力に現していく。こちらがそれだけの力を頂くという事は、神様もそれだけの働きを、神様の働きを可能にするわけなんである。ね。中々私は意味をここんところを慎重に頂かねばいけないと思うですね。苦労を修行と思うておりますと、ね。是を修行と思うておりますと、ね。
雨が降るから風が吹くからえらい大儀と思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。人生の雨風をです。それを修行と受けさせて頂きゃ、身に徳を受けるところの信心が、段々分からせていただいて、ね。だんだん徳とはこんなもんだろうかという事が分かって来る様になると、今度はその修行が有難うなってくる。ね。苦労が修行になり、修行が有難いということになれば、もうここは、ね。
十人前やら百人前やら一万人前やら一万人力やら、後は限りが無いと言う事である。ね。だから神様はまぁその無限の力を持ってござると言う事はです。ね。私共がそこんところは有り難くならせて頂けれる、その度合いが神様をそれだけのいわば一万人力にも、まぁ一千万人力にも御働き下さる事の出来る様な道を、こちらが開くわけである。そこへ信心の楽しみがありまたはその味わいがあるのじゃないでしょうかね。
有難いといううちには、もう限りが無い。有り難いと言うてもです、一寸有難いとやっぱり思うておる人もありゃ、一尺有難いと思うておる人もある。ね。一丈も二丈もの有難さをもって、有難いと思うておる人もあるのですから。信心のいわばこの限りないという事を分からせて貰うですね。そこで私はその思うんです。お互いがどうでしょうか。一人前の所を頂けておるでしょうか。ね。
教祖の御理解の中に、またこんな御理解がございますすね。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、本当の信者じゃと仰る。ね。一人前から、ひとつ本当の信者にならにゃいけません。本当の信者と言うのはあれもおかげであった、これもおかげであったと。あれという事は過去のことであり、これと言うのは現実もっておる難儀なのである。
けれどもそこには、すでにもう難儀ではなくて、修行と頂いておるのであり。いわゆる、その修行を、有難いと受けるところは、いわば本当の信者、と言うことになる訳ですね。本当の信者を目指さにゃいけません。だからそこを例えば一歩一歩、本当の信者にならせていただくために、例えば、今朝の御理解なんかを一つ、よう玩味しなければならんと思うのです。ね。
苦労を修行と思わせて頂きよったら、雨が降っても風が吹いてもえらい、大儀とは思わずに、辛抱し抜かせて頂きよったらその雨が風が、有難うなってきた。ね。楽しみが出来てきたという様にね、その修行がそういう風に修行の内容と言うのが変わって来なければならない。そしてあれもおかげであるこれもおかげであるという事。そこに初めて本当の信者、ね。本当の信者を目指す。
難儀に相対する、ね。難儀に相対する、修行に相対するという、その修行が段々成就されていく時です。ね。相要する相対するに対して相要するところのおかげ。もうそれが自分のものになってしまう。相要する自分と一緒になる。ね。今朝の御理解がそれだったですよね。今朝なんか寒かった、ね。いわゆる寒いというそれに相対する。はぁ寒いかけんでま一時、今朝はま一時布団の中に入っとこうと。
出る事は出たけどももう縮み上がってから、また帰ってきた。これではいかん相対し抜かねばいけん。いわゆる対決し抜かねばいけん。そして勝ち抜かなきゃいけん。ね。そこにはなるほどきっとその極寒の中にですから、冷たくもありゃいわば手がしびれる、耳が切れるごとなってくるのである。はぁもういかんと言うてはそれまでである。そこを辛抱し抜かせていただいて初めて、着物一枚ぐらい、らせてもよいぐらい。
今までかじけておった手が、自由を得るようになるのである。ぽっぽするようになるち言うことです。ね。これがいわば相対するのである。相対するそこからそうした、ね。霜の朝は冷たい。けれども実は冷たいものではないという様なものが生れてくる。だから霜の朝は暖かいという事も言えるわけでしょう。さっきの竹内先生のお話しの中にもあったように、ね。そういう見方をしなければならんのですから。
そこを通らせて頂くと、そういう風に実際に暖かくなれるんだもん。だから暖かくなった事のない者は、それが分からないだけの事。ね。修行をただ難儀難儀で通っとる間はです。まだ手がかじけたり耳が切れるように冷たかったりという所ですから、そこをもう一つもう一辛抱させて頂き抜かせて貰うて、その中に有難いというものを頂かせて貰う。その先に相要するものがある。ね。
久留米の田村さんが、昨日の朝お夢の中に頂いておられる様に、ね。家族中でなんかこう市内見物、この町を見物しておるような状態であった。あんまりあっちこっち面白いところを見て歩いていたところが、帰り道が分からなくなった。東やら西やら南やら北すら方角が分からなくなってしまった。そういう体験が皆さんはあるでしょう、ね。例えば皆さんが、東京の真ん中にぽんと投げ出されたらです。
それこそ西やら東やら分からなくなるだろうと、こう思うのです。という様に私共はややこしい道ばかりを、信心の無い時代には歩いてきておるということです。そこで一緒にものを尋ねたところが、誰も知らん知らんとこう言うけれども。ある人に尋ねたところが、あぁその道ならばここをお出でにならにゃいけませんと言うて、女の人が教えてくれた。それがこの海岸伝いにこの崖を降りて、海岸伝いに行きなさいと。
そこには道があると。それは波がこう打ちかけるようなところがあってです。大変危険を感ずるようであるけれども、危なくはないと言うた。それが素晴らしいんですよと。その崖の岩にです。ずうっとその自然の波が打ち寄せて、何時の間にか様々なそれこそ、彫刻絵画を見るような素晴らしい、いわば形に岩が変形しておる。それがこの道を辿らせて頂くと、その素晴らしいんですよと。ね。
仏陀の姿があるかと思うと、観音の姿がある。とにかくそこの道を行きなさりゃこれが一番。本当いうたら上のほう、に大きな道が出来ておるんですけれども、これはまだ出来かかっておるのですから、今下の道をお出でになるが一番良いです。その決してこの波が打ちかけてきても危なくはありません。こちらが見て行く楽しみがありますと言うてその、教えてくれた。
なるほど下ってみた所がその波打ち際に、ずうっと一本の道がついとる。こっちは崖である岩の崖である。それを見てから驚いたもう実に巧妙なですね、自然の働きがどうしてこういう素晴らしいその、人間の手をもってしては出来ない様な彫刻が、ずうっとその岸壁にしてある岩の壁にですね。いよいよやらせて頂きよったら、なるほどその足元に波がざぶざぶその打ちかけてくるから。
危ないごとあるけれどもこちらを見て行きよったら、それを感じんぐらいに楽しゅう、有難くこの道が歩いて行けれると。いよいよずっと、行き詰って行きよったところがです。大きな岩にです。その岩にこうしがみつくようにして、岩を抱いた様にした、大きな亀の姿があったとこう言う。それもやはり自然の波がこういう風に作ったと、こういう訳です。はぁらもう素晴らしい教えられた通りの事だと言いながら、その道を辿っておるところで目が覚めたとこう言う。ね。
神様をあるやら無いやら分からない人には、そんな程度である。無いという人には無いのである。いわばそこにはもう神様は、無力にしてしまっておるものである。けれども神様があると信ずる者の上に、神様はあるのである。神は信ずるものを信ずると仰せられる。ね。そこで私共はそれを具体的に申しますならばです。とにかく一人前の信心と、ね。苦労を苦労と思わずに、苦労を修行と、これが雨だこれが風だと。
この辛抱こそ身に徳を受ける修行だと思うて、それを修行だとまだ分からん本当言うたら。ね。けれどもそれを修行と思うて、やらせて頂きよるとです。例えばそういう道に出る事が出来るという事です。宗教的その彫刻と言った様なですね。ものがずうっとそれを見、聞きしていく事が出来ると言う訳なんです。ね。そこで私が最近皆さんに申しております。今日の十三日会ででもまぁ申しました事で御座いますけれども、ね。
本当に今椛目で打ち込んで信心させて貰い、今こそ信心を分からせてもらい、ね。おかげを頂いていく道、徳を受けるためにこういう道人が人偏ら、私は行人偏と言う行の尊さ、行の有難さと言うものを、今こそ体得しとかなければもう先になったら、頂かれんと私は。何故って私が亡くなった。なるほど御理解は沢山残っているけれどもです。なぜかと今はなぜかと、おかげ頂けるかと言うと、もう百人百様でしょうが。
一人ひとりいわば、個人教導が出来るでしょうが。あなたはここを改まなければ。あなたはここを磨いていかにゃ。あなたはこういう道を辿らなければと。それが違うでしょうが。古賀先生はあなたはこうでなからにゃ、徳は受けられんよ久保山先生あんたは、ここんところを分からなければと、銘々に違うんですもん。同じじゃないんですもん。だからその教導を受けられるのは、今だと私はね。
いわゆる上には高速道路の、あの大きな道路が出来たらですね。もう私はおかげは受けられない。先ほど秋永先生が話しておりましたように、ね。あちらへちょうど商用での、あちらの大阪の商人の方が見えた。阿倍野の教会の信者。朝の御祈念に八時までに一千名のお参りがあるそうです。私共は今日は午前中に、百二十名お届けお取次ぎさせてもらって、もうへとへとになっとるけれど。
勿論それは十人も、何人もの先生がお取次ぎされるのでしょうけれどもね。八時までに千人のお参りがあるそうです。ね。八時からあちらは商売人が多いですから、もう商売人は昼ごろでも参って来る事は出来んと言うのが、先生のご流儀らしいですね。ですからもう実際に話してみるとです。おかげは確かにどんどん、頂いておるらしいけれども。話してみると実に信心が分かっていないと言う事。
いわばもう高速道路を通っておる人達だという事です。ね。椛目でも例えば本当に、参りさえすりゃおかげになる。玉水さんじゃないですけれども、門柱のご紋章を撫ぜただけでおかげになると言われるくらいに、そのゴヒレイがあるのですね。そういう例えば実力が出来たら、もう信心の稽古は出来ないということ。椛目でもそうです。もう高速道路は出来かかっておるのです。
上の道路になったら、それこそもう「はい」「はい」で、皆さんがおかげ頂くようになるのです。そうしたらその信心は分からん、徳を受ける術すら分からなくなってくる。ね。根本的ないわゆる信心があるにしてもです。現在はだから大阪辺りの玉水つぁんにしたところで、阿倍野にしたところでです、ね。そうした生き生きとした信心そういう様なものは、だからその先生自身の信心にはあるにしても、そういう教導は、もうなされてはいないという事。
それを思うたら実際、椛目の人達はぐずぐずはしておられないて。今こそそれぞれにです、いわば個人教導でも受けて徳を受ける道を、おかげの頂けれる道を体得しておかなければいけないのじゃないかと。ね。そしてですね、苦労を修行と思わせて頂けれる。一人前にならせて貰いその修行が、有難いと分からせてもらう。あれもおかげであったこれもおかげであったという、本当の信者にならせて貰うて。もうそれから先は限りが無いのである。有難いの度合いなのだから。ね。
百人分有難いなら、神様は百人力。千人分有難いならば、千人力の働きを、神様の働きを可能にする事が出来るという事です。ね。ですから、神様を現すという事は、そういうことであり、ね。神様の力というのは、こちらに力が出来なければ、それだけの力を現すことも、頂くことも出来ないという事が分かりますね。どうぞ苦労を先ず修行と思えれる、そこんところが辛抱である。雨は辛い風もつらい。けれどもこれが身に徳を受ける修行と、先生が仰るから、ね。
泣く泣くそこを辛抱しぬくという事が大事である。その先にね、相対し相要するところの信心が生れてくる。ね。泣く泣くだったけれども、辛抱し抜かせて頂いたら、こういう有難いものが生れてきたという事になってくるのである。ね。そしてその限りなく、その有難いというものを、いよいよ頂いていこうと言うのが、私は信心だと思うのですね。
おかげ頂きまして有難うございます。